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紅人会代表のBLOG

佐賀県佐賀市の学習塾紅人会|kojinkai代表によるブログです。受験のこと、教科のこと、学習のこと、塾の日記、代表の日々などを綴ります。

丁寧に。

久々に生徒を叱る。

 

I see.の和訳が「ああね。」になっていたという、

たった”それだけ”のこと。

 

しかし、”それだけ”には幾つかのケースが考えられる。

一つは、ある程度知識を知っていて

訳をわざと雰囲気に合わせている。

一つは、ある程度知識を知っていて

私にそれを見せて楽しんでいる。

一つは、無知識にも関わらず調べもせず、

なんとなくそれっぽいからそう書いている。

 

上二つは、結構英語ができるグループとか、

英語ができて、なおかつ私と仲が良いとか、

そうであるから本番はちゃんと書けるし

特に咎めるということはしない。

しかし、今回は一番最後のケースだったから叱った。

 

そもそも和訳を組み立てよう、という時に

教科書の後ろも辞書も全く開かない、という

その意識の低さに対して叱ったのだ。

 

教科書の和訳は、動詞が何であるかと、

前置詞に気をつけておけば大体可能だ。

I see.のような慣用的な会話表現は教科書の後ろを調べれば

必ず書いてある。

そういう細々とした自立して学ぶための

ルールを一つ一つ教えることによって、

一人で学んでいける準備が出来ていく。

 

私は、勉強しようとしない生徒に対しては

ことごとく冷たい。

なんで先生そんなにキレてんの?って

他の生徒が思うほどに叱り飛ばす。

しかし、それはできるようになる努力もしていないのに、

やり方も尋ねず、やろうと試みもせず、

なんとなく事なきを得ればそれでいいと、

そんな風に思っているのが目に見えて分かるからだ。

 

「悪いことは言わない、そういう意識なら絶対伸ばせないから

無駄な投資は止めてもらったらいい。

君になんて投資しても無駄だから、

君からそう親御さんに言いなさい。

高校も行かなくていいだろう。

出すのは親御さんだけど、意識の低い君が

どんな投資を受けても日本は明るくならない。

今この言葉に対して悔しく思うなら、

いまこの瞬間から何かを変えてみせなさい。

俺は君が変わるか、君が俺に負けて塾を去るか、

そのいずれかに至るまで厳しく接する。

絶対手は緩めない。覚悟しなよ。

俺は君がここに在籍する限り、伸びるまでやる。」

 

と。まあ、その子もまだ入塾してすぐなので、

これからいろんな面で変化があるでしょう。

去年のパーリーピーポーの彼の入塾初期の頃を

随分思い出しましたね・・・

「当たり前」の育て方。

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当たり前、と言うのは、いつも

その個人個人の主観です。

 

時にそれは外から与えられるもので、

時にそれは内から生まれるものです。

正直どちらがいいということはありません。

むしろ大半の当たり前っていうのは

外から与えられることによって”初期設定”されます。

 

 

このように、苦を当たり前と思えば

楽になるという逆説の次元に至るには

相当な習慣化が必要でしょう。

そして、未来を見据える目を持つということが

大前提として必要になります。

”なる”というのは未来を示す述語なのです。

 

 

後回しにしたくなるほど嫌なことだって

きっとそれぞれにあると思いますが、

それを”当たり前”と言い切れる自分でありたいものです。

そのために、一歩先、二歩先を見据えながら

自分を客観的に見つめる目を持たなければなりません。

てつがく的な時間。

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たまたま県立図書館を通りかかると、

おそらく自分が今年最後に出会うであろう桜吹雪に出会い、

思わず腰掛けて小30分ほど物思いに耽った。

 

好きな本の一冊でもあれば、

授業に間に合わなかったかもしれない。

形容しがたい、美しい静けさがあった。

 

満開の桜とは違い、きらめく一つ一つの

花びらは実に丁寧に風に揺られ地に落ちていく。

その自然が織りなす所作に、

ただ私は為されるがままであった。

 

「先生、ここはどこですか?」

「君が大きな松ぼっくりを拾ってきたあたりさ。」

「私はここを知らない。」

 

そんな問答ですら哲学的に思えた、

ただの過ぎ去ってしまった時間。

 

そう、ただの過ぎ去ってしまった時間。

料理の話。

コース料理というのをあまり頼まない。

アラカルトかお任せか。

自分が店に望むものがそれだから、

チェーン店に足を運ぶのは敬遠されがちだ。

 

自分がバー好きだっていうのも

そんな趣味に起因していると思われる。

 

その時の感覚とか気分によって、

マスターが考えてくれた”お任せ”を

いただくという特別感が好きだ。

妙に記憶に残るものである。

 

そもそも多くの店のコース料理っていうのは多すぎる。

絶対に私みたいなのは仮想客ではない。

私は物好きな少食派であり、

自分の容量を超えた圧倒的な質量を

自分の腹に収められない時に、

なんというか罪悪感を覚えすらする。

 

その店に行けば、自分の一番好きなものか、

一番美味しいというものを食べたい。

少食な私にとってはそれだけが望みで、

あまり余計な気遣いは不要だと思っている。

 

ちなみに紅人会にコース料理はまだない。

食材に対する理解と構想、経験や研究による、

アラカルトメニューか”お任せ”しか、まだない。

 

ただ、形あるコース料理を作りたくないわけではない。

腹に収まって量は程よく、

精神的には最高に満足できるくらいの

上品な、フランス料理のようなコース料理を

まだ着想できていないというに過ぎない。

いずれ、ワインだって高級なものを欲しくなる

そんなコース料理を作れたらいいけどね。

 

まだ私は未熟で、アラカルトメニュー、

あるいは”お任せ”によるコース研究が欠かせない。

 

 

最初に、コースは”あまり”頼まないと言った。

本当にすごいと思う料理人には、

やはりコースで頼むというのが自然だ。

必ず満足をさせてくれるという確信とか

楽しみが心を踊らせるからである。

Google翻訳、学習上の面白い使い方。

 翻訳というのは、ある言語を別の言語に置き換えるっていうのが主流で、それが普通と思われますが、この機能は結構面白い使い方があるんです。

 

 まずは、モードを”日本語から英語”にしておきます。そのあと、”日本語”を打ち込むところに敢えて英語を打ち込みます。そして、”日本語”の方で発音をさせるのです。すると、どうでしょう。とっても下手くそな英語を聞くことができます(笑)。その後、”英語”の方で発音をさせると、正しい発音を聞くことができます。

 

 まあこれは単に笑いのタネということではなく、発音の変な方と綺麗な方の両方を聞くことによって比較ができ、どの音がどう変化しているのかということがよく分かります。発音事項が苦手な生徒にとっては、両方を聞くことによって面白おかしく学べるかもしれませんね。

 

 昨年これを中三の子に紹介したら大ウケでした。長い文ほど面白いので、ぜひ試して見てください。笑

将来の”後輩”。

 高等部の初の生徒さんは、偶然にも小学部で初めての入塾生となった生徒さんの幼馴染。何かのタイミングでその子が教育学部を志望しているということは知っていたのですが、先日の志望校判定で一年前に私が勧めた大学の名をしっかり第一志望に書いているということも確認し、もう揺るがないんだろうと。目指すは教育学部の最高峰です。

 

 その子は7時過ぎにはいつも訪れて勉強している故、小学5年生とか6年生とかに対する私の指導から、中学生に対する指導まで幅広く見てきています。本当に間近で見せたいのは、低学年の指導なのですけどね。指導の中で逐一どういう工夫とか方法論でその指導が成り立っているのか、とか、そんな話もしてあげたいのですが。そのことにより、今高校で受けている指導なんかも一つの方法論として捉えられるようになり、客観的に見られるようになるのかもしれないなと思うのですが、まあ、おいおいですね。

 

 生徒は大概医学とか物作りとか研究職とか、そんなことに興味を持っている生徒が多く、教員志望はごく少数です。まあ時代も時代ですから、教員の大変さも身にしみているのでしょうか。しかし、そんな中でも将来の後輩となるであろう人材を発掘して指導できる喜びというのは、おそらくは学校の先生以上のものであると思います。なにせ私は3年とか4年越しにその精神的な成長ぶりとかイレギュラーなトークとかを踏まえて関わり続けられるわけですから、そういう面でもやっぱりこの場で教えていてよかったなと思うことは多いです。

 

 長く関わってきた子が、養成課程を経てまた別の子を指導し、どこかで私のDNAを受け継いで何かの方法論とか価値観が継承されていくというプロセスを考えると、夢が広がります。まあ、賢く優しい、面倒見の良い子ですから私なんかよりももっと良い指導者になっていくでしょう。そんな日を夢見ながら指導するというのは、私の日々の楽しみの一つであります。

靴下屋社長の言葉。

 先日何かのニュースで目にした言葉の中で特に印象的だった言葉があります。

 

「苦労というのは、心の余裕があるときに感じるものだ。当時の自分にとってはやるべきことがたくさんあって、ひたすらそれと向き合ってきた。私はそれを苦労だとは感じたことがない。」

 

という趣旨の言葉だったと記憶しています。ちょうど会社が7000万の借金を抱えていた時期の話だったと。若い頃は買ってでも苦労をすべきだ、という人もいる一方で、この社長の言葉はどこか心惹かれるところがありました。偉そうに「俺は苦労してきた」とか宣うその辺のおっさんたちよりも、「熱中して、一生懸命にやってきて、いつの間にかこうなってた」って本心から言えるくらいの方のほうがよほどかっこいいと。

 

 真っ直ぐでありたいものです。